ブルース・フランチスの恩師

長年に渡って私は世界的にも著名な内家・外家武術の老師達に師事し、正統なチベット仏教や道教瞑想の系統も学びました。

ここでは、私に大きな影響を与えた偉大な恩師達のことや学んだことを読者の皆様と共有します。

私のプロフィールと内家拳の詳細は The Power of Internal Martial Arts and Chi をご覧下さい。

劉洪傑(Liu Hung Chieh), 道家の師

武術の可能性を認識

中国での私の最後の恩師だった劉洪傑は八卦掌・形意拳・対極拳・道教瞑想の達人でした。彼は書道の達人でもあり、中国医学理論の完全な知識も持ち合わせた古典的な学者でした。

劉老師は体にではなく心で私に触れることで、また走圈(Walking the Circle)の練習では文字の動きに合わせて私のエネルギーを操り動かすことができました。彼は私と練習する時、座って瞑想する時、あるいは毎日の書道の練習で私のエネルギーを操作することができましたが、中でも最もパワフルだったのは書道でした。彼が書道をした時は、書くことでお守りが神秘的な現象を起こすという古典道教の逸話のようでした。

劉老師が書道で集中する「気」は焦点レンズのようでした。劉老師は、彼の師だった麻貴(Ma Shr Ching)が、董海川(Tung Hai Chuan)が座って瞑想している間に、当時どのように剣や素手で稽古をしていたか話してくれました。董は目を閉じて、麻貴を正したり何をすべきかを指示したのだそうです。続きへ…

白樺(Bai Hua), 道家の師

白樺は劉洪傑の弟子で北京で教育を受けました。彼と私は香港で会いましたが、きれいな流暢なマンダリン(北京語)話す人でした。私の中国語はマンダリンしか話せなかったので、とても幸運でした。一度彼と一緒のアパート生活をしましたが、彼はHuang Hsi Iと同じように非常に強い影響を与えました。(特に生体組織を延ばしたり関節や体腔の開閉について)

白樺の教え方は最も重要な事柄に焦点を合わせることでした。一番強調されたのは「気」と楊式の内家パワーを作ることでした。彼は十代の時にすでに紅衛兵の将官でした。彼の武術のアプローチはたった一撃か二撃で相手を完全に無能にする技を作ることでした。

白樺は劉洪傑以外の先生にも学んでいます。彼は6歳の時にひどい肝炎になり、それを治療するために気功を学び始めました。漢方薬や鍼療法の針も無い大変貧しい地方の村に送られ、そこでは医者が生きるために気功を教えました。以来13歳になり劉に出会うまで、彼は気功・北少林・酔八仙拳の拳闘(内家・外家の武術)を学びました。白樺は北京の通りで起こった紅衛兵の右翼と左翼の大規模な派閥紛争についてよく私に話してくれました。続きへ…

王樹金(Wang Shu Jin), 驚くべき気を持つ内家拳の達人

1968年の夏、アジアでは最高の素手の格闘家として広く見なされていた内家拳八卦掌の達人王樹金を探すために日本から台湾に行きました。私は王のクラスをつきとめ、早朝5時半に台中の公園にある円形劇場の野外音楽堂で会うことができました。その時間に多くの人が公園にいて、少林カンフー、空手、太極拳、バトミントン、と色んなことをしていました。何人かは木の枝にぶら下がったり、ストレッチングをしたり、ある人は散歩していて、他はサックスホーンを吹いていました。

私はこの超現実的なシーンに吸い込まれ、二十世紀に於ける古代中国の出会いをじっくり考えていましたその時白いパジャマ姿の大柄な男が通りをよたよたと鳥かごを二つ抱えて歩いて来ました。110  Kg-135 Kgで身長173 cm位の丸々太ったそのお爺さんが王樹金だったのです。

空手の実力をテスト

私はその時19歳で、公認の若い空手チャンピオンでした。王に敬意を表して伝統的な贈り物を持参しました:たくさんの高質な朝鮮人参でした。この最初の出会いで、王は私にはっきりと”空手は老女や子供と戦うためのもの”だと言い、躊躇せずに空手への低い敬意を表わしました。続きへ…

植芝盛平(Morihei Ueshiba), 合気道の開祖

彼のパワーは何処から得られたのか?

私は日本での学生時代に合気道開祖の植芝盛平翁先生に学びました。私の研究では翁先生の主な合気道の方法が直接八卦掌に影響を受けたと示しました。

私の最初のトップレベル内家拳の深く幅広い経験は1967年から1969年の植芝翁に学んだ時でした。彼との訓練を振り返って見れば明らかに合気道の技の多くは柔術から来ていました。

しかし、彼が合気道で示した「気」は形意拳からの部分的な影響を伴った八卦掌から直接来ているように見えます。

私は1960年代の後半に日本で植芝合気道が基礎を担ったという大東流合気柔術の達人たちを見てきました。しかし植芝翁のように器用にパワフルに「気」を操ったり合気道や八卦掌の基本である「気」の理論を明確にできる人はいませんでした。

実際、植芝翁は合気術の熟練レベルを遥かに超えていました。彼の入身、回天、引き、そして敵の気と心を操り誘導する能力は驚くべきものでした。日本の歴史に於いて比較できる武術は無く他にできる人もいませんでした。続きへ…

洪懿祥(Hung I Hsiang), 内家拳の達人

私が洪懿祥に学んだ時、彼は50歳代でした。時々ちょっとぶっきら棒にしゃがれ声で話しましたが、実は彼は聡明で、鋭敏で、高学歴で、明確な人でした。

八卦掌をしている彼を見ていて、彼の小さな動きの正確さはすばらしいものでした。八卦掌の専門家達に、要点で語調を高める洪の声のトーンは誤解を招くこともありました。私は何年かの間に動物の為、人々の為、精神修養の為あらゆる理由で八卦掌を訓練する何人もの人達に会いました。ある人は聖徒で、ある人は罪人。一つ彼らに共通なのは教育を受けているいないに関係なく、いずれもすばらしい生来の知性を持っている人達だったということです。

洪はたくさんの戦いをしていました。台湾では戦いたければ戦いを見つけるのは非常に簡単なことでした。20世紀の前半から中盤では、かつて世界中の男達は単なる快楽のために戦いました。そのような戦いは度々、例えばバーのような特定の社交場で行われました。

台北では普段そういった戦いは風俗街付近で起こりました。非常に一般的に人々は下層世界の雰囲気の中で飲酒し、そして喧嘩の後の悪感情が無いのが普通でした。評判が高まり噂が流れました。続きへ…

鄭曼青(Chen Man Ching), 太極拳の達人

私がニューヨークで学校の放課後に参加した合気道の一人が柔道の指導者で、Lou Klinesmithと言いました。私の情熱と拳闘術を知って、ある時彼は私に新しい種類のソフトパンチ(柔拳)に興味があるか聞きました。好奇心が起こり私は”勿論!”と答えました。

それで彼は、彼の手を私の体から数センチ程離して置き、完全に力を抜いた状態で軽く叩きました。その瞬間は何もなかったように感じましたが0.5秒位して私の内側が爆発したようになりました。痛みで蹲りましたが、Louが私の体を数秒撫でたら完全に直りました。そして私に太極拳と彼の師で60歳の鄭曼青について話してくれました。彼は私に鄭のことを見てみるよう勧めました。

その頃60歳代半ばの鄭曼青はマンハッタンのアパー・イースト・サイドの中国文化センター(Chinese Cultural Center)で教えていました。そこは私の家から1キロ弱の所だったので、比較的簡単に確認することができました。中国文化センターは大きな窓張りだったので外からクラスが覗けました。太極拳のスローモーション動作は変な感じがして、私はそこを数回行き来した後ようやく中に入りました。続きへ…

Huang Hsi I, 内家拳の達人: 気療法

Huang Hsi Iは、がっしりした体格でアメリカ人男性の平均的な背丈位でしたが母国台湾では背が高い方でした。

大きくて非常に敏感な手と合わせた彼の力と豊富な「気」(自然で訓練された)は、彼を中国気功の治療整体(気功推拿)と整骨治療に於ける優秀なヒーラーにしました。彼は農家の出身だったので、植物とかハーブを含む生活の物に強い関心がありました。彼は人に料理するのが好きで薬用ハーブ(漢方)で食べ物を用意して美味しい料理を作ることが出来る、かつて私が会った中でも数少ない一人でした。

体の非常に柔軟なHuangは電話で話す時に小さな腰掛の上にしゃがむかわいらしい癖がありました。彼はモダンな服を着ていましたが古風で思いやりのある保守的な中国人でした。

中国人の標準からしても彼は変わり者でした。5、6年私達がルームメイトだった頃、Huangは季節に準じた田舎ののんびり感覚で生活していました。彼は時計を殆ど気にしませんでした。それが私や知人達にとっては非常にフラストレーションでした。続きへ…

澤井健一(Kenichi Sawai), 形意拳の達人: 武道の精神

渋谷太極拳学校のメンバーが、立ったままの訓練で「気」を開発する熱狂的な人たちの集まる澤井健一の形意拳グループに私を紹介しました。

澤井は中国で10年間形意拳の意拳学校の創始者である王向斉に学ました。私は澤井健一のクラスに紹介されたその頃、健康やフィットネスよりも主に戦うことを好みました。弟子達の多くは東京の勝負武道に強い若い男性達で、真剣に戦い方を学ぶために来ていました。多くは空手3段、4段、5段の黒帯の人達でした。

澤井のグループでは誰かが戦闘術を学びたいと言って来くると、その人物は誠実で日本武道界に高く評価される格闘精神を持っているかどうかをテストされます。

長い間そのクラスを観察した後に、私は武道経歴を述べて最初の正式な入門手続きを行いました。私が真に格闘技の黒帯か単に素人かを見極めるためにスパーリングを求められました。続きへ…

Yang Shao Jung - 磁石のような手

1977年に私は推薦状無しでは弟子を取らない太極拳の達人Yang Shao Jungへの紹介状を頂きました。楊は楊澄甫(Yang Cheng Fu)の長男で楊式太極拳の創始者楊露禪(Yang Lui Chan)のひ孫に当ります。彼の学校は香港の湾仔地区のエレベーターの無い建物にあって、二階のバルコニーの上には美しい中国書道で書かれた看板が示されていました。香港の古い建物の多くは階段が特に薄暗くなっていました。

二人の屈指の太極拳の達人楊澄甫と呉鑑泉は中国の相次ぐ紛争時代の1930年代に英国の植民地の安全な避難場所であった香港に避難しました。彼らの長男達は第二次世界大戦の後は香港に残りました。

私は楊の門を叩いて紹介状を渡しました。一度読むとすぐに私は入門を許可してもらえました。当時の香港の古い建物の殆どがそうでしたが住宅は小さいものでした。右側が家族のプライベートの部屋で、左側が学校になっていました。

戸口から数歩のところが数人が座れる小さな待合所でした。この地点からアパート内の幾つかが見えました。1メートル程離れて真っ直ぐの所の25平方メートル弱程の部屋で楊が教えるのを観察できました。その教室に向かって壁の隙間の上には董英傑(Tung Ying Chieh)と楊が若い時の写真が見えます。続きへ…