ブルースについて

ブルース・フランチス(Bruce Frantzis)は、東洋療法に40年以上の経験を持つ道家のリネージマスター(伝人)です。彼は気功・八卦掌・太極拳・形意拳・道教瞑想の系統で中国本家から伝人に認定された初の西洋人、そして武術師としてもよく知られています。中国で10年以上修行し、禅、チベタン、仏教、ヨーガ、クンダリニー、エネルギーヒーリング療法、道教の「火・水」の伝統など幅広い経験と知識を持つリネージマスターです。

ブルース・フランチスの経歴:

  • 初の西洋人として気功・八卦掌・太極拳・形意拳・道教瞑想の伝人に中国本家から認定される。道教瞑想の系統は世界で二番目に多く翻訳されたとされる「道徳経」著者である老子の直系列。
  • 中国・日本・インドで16年間修業。
  • 禅・ヨーガ・クンダリニー・道教「火」などを20年間に渡り修業。
  • 中国で道教リネージマスター(伝人)劉洪傑(Liu Hung Chieh)に広範囲な「水」伝統を学ぶ。
  • 気功・八卦掌・太極拳・道教瞑想・道教エネルギー術で、2万人以上の生徒に指導。
  • 世界各地で400人以上の指導者を認定した。
  • 健康科学博士(PhD)。
  • 1981年北京にて西洋人として初めて中華人民共和国から太極拳全般を教える資格を認可される。
  • 鍼療法を学び中国の診療所で気功医師や推拿ボディーワーカーとして働き1万人以上のがん患者をヒーリング治療した。
  • 中国語が堪能で、母国語の英語でも気の概念に関する比喩的表現や漠然とした言葉の説明ができる。
  • 太極拳・武道・道教瞑想など気の訓練法に関する本は8冊に及ぶ。
  • 英国オックスフォード大学の講演者及びハーバード大学Qiリサーチグループのアドバイザーを勤める。

ブルース・フランチスは1961年以来、研究・訓練・指導・執筆を続けながら、3千年の歴史をもつ道教の伝統継承に従事する武人、ヒーラーそして僧侶にも師事しました。彼の執筆したエネルギーアート(術)の本には気功、エネルギーヒーリング療法、道教瞑想、武道・太極拳などがあります。彼の流儀の真髄は、心・体・魂を宇宙の根底にある意識(道)と結びつける生命エネルギーとなる「気」の修養です。

フランチスは、あらゆる年齢の健康レベルの異なる人達が生命エネルギーを増強し活力ある健康を作り出せるように実践的で包括的なシステム-Energy Arts System® -を開発しました。彼の教えた何人かの指導者達は学校を設立しています。

彼の本やCD・DVD・指導書・その他、無料月間ニュースレターなどは、欧米人に中国のエネルギー術を広め、実践的な道教の伝統術を普及させたいと願う彼の決意を支援するものです。道教のエネルギー術は本来はスピリチュアルな伝統術ですが、殆どの方はストレス解消・病気治療・健康と幸せのために学んでいます。

Bruce Frantzis: The Path of the Warrior/Healer/Priest

スチュアート・ケンター(Stuart Kenter)の「Opening the Energy Gates of Your Body」からの抜粋

香港:掴み所のない気のパワーを求めて

真剣に太極拳や気功や武術を学ぼうとする方の理想とは、武術の秘訣を全部教えてくれる本物の東洋の老師に学ぶことです。しかし内部パワーの秘伝は大衆には教えてもらえず、限られた一族のメンバーや内輪の弟子のみにしか伝授されません。中国では秘伝を継承する老師に師事することは、西洋のハーバード大やオックスフォード大で専門分野の優れた教授のもとでポスドクさせてもらうのに等しいのです。

ブルース・フランチスはその理想を成し遂げた希少な西洋人の一人です。1961年に始めたいくつかのマーシャルアートを通じ、冒険に満ちた長い旅の中で、彼の野心は常に系統を継ぐ老師に学ぶことでした。この道を探求した他の西洋人達と同じようにフランチスも中国のトラウマ的厳しい政治変動に左右されたり孤立したり、長い間固く閉ざされた扉に絶えず挫折を負いました。非同情的東洋の偏見で「最高秘伝の教えは西洋人にはしない」という暗黙の了解から、彼の不満は激増しました。1981年の夏、ようやく香港でのフランチスの恩師が、北京にて自身が師事した劉洪傑(Liu Hung Chieh)に紹介状を書くと承諾してくれたのです。この手紙は後にフランチスを大変興奮させることになりました。時期を同じくして、彼は北京体育学院(Beijing Institute of Physical Education)から太極拳を勉強するために招待を受けていました。

北京では夏の間は午前中、国の簡略式太極拳・推手・武器を受講していました。その時の教本は武術の応用で太極の健康面を強化するものでした。それがフランチスに包括的なヘルスケア法としての太極拳の深い知識をもたらし、彼は一目おくようになったのです。この太極拳を受講した結果、フランチスは北京での西洋人第一号として、太極拳全般を教えることを中国政府に認可されました。それから彼は太極拳や気功を西洋で使える医療プログラムにするため開発を始めました。

太極拳のコースを受講している間は毎日午後に劉洪傑老師の家で学びました。太極拳のコース終了後は午前も午後もずっと劉老師に付きっきりで基礎訓練を受けたのです。

北京: 劉洪傑老師

フランチスは3年間、当時80歳代の劉洪傑老師に個人レッスンを受けたことになります。劉老師は非常に魅力的な経歴の持ち主でした。

劉老師は呉式太極拳の開祖呉鑑泉(Wu Jien Chuan)に学び、北京八卦掌学校初期の一番若い生徒でした。30歳代になり仏教の天台宗学校によって悟りを開いたとされ、その後も10年間道教家たちと中国西部の山中で修業しました。彼は道教気功(qiqong)と瞑想(meditation)の達人であると同時に太極拳(tai chi)・形意拳(hsing-i)・八卦掌の系統継承者(伝人)でした。

多くの伝統武道家達がそうであるように劉老師も公には出ませんでした。1949年の中国の革命以降は一人だけ、香港のフランチスの師である白華(Bai Hua)に形意拳と八卦掌を教えました。フランチスが白華先生に「劉老師は自分を北京の弟子として教えてくれるだろうか」と尋ねると、先生はこう答えました「どうかな?彼は誰にも教えていないから受け入れてくれるかどうか分からない。」

その後フランチスは劉老師に会うことができましたが、老師は初めからとても良心的でした。フランチスはその時、それまで武術と瞑想に没頭した20年という長い年月は、この人に教えを請うための基礎作りだったのだ、と思いました。劉老師はフランチスの2倍以上の年齢で半分以下の小さな体でありながらフランチスを掴み上げ自由に振り回しました。一方、フランチスは劉老師の小さな指さえも動かせませんでした。フランチスは香港や台湾では「若い師匠」と言われていたのですが、深い感銘を受けました。劉老師は 「単に大きいという以上にエネルギーを持つことの方がもっと大きい。」とフランチスに言いました。

劉老師に学び始めてフランチスは、老師が訓練した道教の若返りテクニックの成果をしばしば見ることができました。これらは数時間または数日という時空の中で、劉老師を老人から若者に変えていくように思えました。その変化は凄まじいもので、フランチスはこの老化現象のコントロールを真の師匠の「印」として捉えました。

フランチスは劉老師に八卦掌を教えてくれるように頼みました。教示はフランチスがそれまでやったことのない最も激しいエネルギー操作を伴うものでした。レッスン後は非常に疲れてしまい、劉老師がフランチスをベッドに運んでくれて、仏教や道教の話をしたり瞑想を教えたりしてくれました。何年か後、老師は「フランチスに教えることを承諾した唯一の理由とは、フランチスが来るこを夢で予見していたからだ。」と明かしてくれました。老師は彼の人生で5つの予知夢を見ていて、それらはすべて正夢として実際に起こったそうです。他の道家達が業(カルマ)を信じるように劉老師も信じていて、老師とフランチスとの間にも存在することを深く感じていたのです。フランチスは自身の著書の中で、「気功や道教エネルギー術の奥深い内部秘伝をフランチスに教え始めたのは劉老師自らの意志でした」と綴っています。

ニューヨーク市: 最初のトレーニングの地

1940年暮れにニューヨーク市で生まれたフランチスは小太りの不器用な子供でした。彼は12歳の時に同級生が学校で喧嘩して大怪我を負ったのを目撃しました。この出来事は彼に強烈な影響を与えました。その後 "誰も怖くない!" という地下鉄の広告を見たのが、彼が柔道を始めるきっかけでした。暫くして彼は空手、柔術、合気道、禅も始めました。

禅に引かれたのはフランチスが14歳の時でした。当時彼は禅を主に空手や武器を躊躇しないようにするための手段にしていました。この年齢での瞑想への興味は精神修養というよりも武術のための心の鍛錬が主でした。精神的な要素が無くても、フランチスは禅が困難を通り抜ける強さに導いてくれる一点集中力を提供してくれたと言っています。

初めの頃は日本武道を学ぶことに集中しました。彼が初の東洋旅行に出発するまでには柔術・空手・合気道の黒帯有段者となり、しばらくして柔道でも黒帯を取りました。柔術の先生の勧めで指圧も学び、この種のボディーワーク(手技療法)を高校時代にトレーニングしました。合気道も指圧も「気」である生命エネルギーを利用します。合気道はパワーで、指圧は治療です。フランチスの健康テーマへの興味とこだわりはとても若い時代に始まったのです。

彼が18歳になるまでには、東洋の武術や瞑想の本質を学ぶためはその発祥を見なければならないと強く思うようになりました。この思いが中国に11年、日本に3年、インドに2年というトータル16年の海外留学へと彼を導いたのです。まだ十代での武術修行の動機は破壊への魅力が主でした。彼は当時どうやったら人の体を痛めつけることができるかに夢中になっていたのです。矛盾していますが、彼の健康と瞑想への好奇心はこの時期にはまだ暴力という形で表現されていました。彼にとって禅瞑想は自身の矛盾した心の層を打ち負かすための方法でした。マッサージは人の痛みを取り除くための方法でした。それまでは健康で幸せなことへの関心はありませんでしたが、彼が変わったのは20歳代になってからです。体・心・精神の有用な側面を害から守り保護するためには武道・治療・瞑想のテクニックをどのように適用すれば良いかを真剣に学ぶようになったのです。

この変化は中国で始まりました。フランチスは年齢が半分以下の若者達よりもはるかに活気があり健康な年配者で気功の開業医をじかに見ました。彼は初めのうち気功の身体術に畏怖していました。エネルギーを直接用いる実際の気功法を学び始めて、これが強さと活力を保護しながら増加させる方法だということを理解できたのです。フランチスは彼が見た全ての訓練が自分自身も含めて年齢と共に強くし中身を育てたのだということに気が付きました。何年間も気功治療のマッサージ(気功推拿)を行った中国の病院診療所でフランチスは、それまで弱って病気がちだった人達が、男も女も気功を通してはっきり健康を取り戻して強くなっていくのを見ました。気功を通して神経症や精神障害、極端な憤怒症、鬱病、不安症や恐怖症を持った人達が静かになり、安定し、バランスが保たれるようになっていくのも目にしました。彼は気功が鈍い神経から知性と知覚力に改善するのを目の当たりにしたのです。フランチスにとって中国武術は西洋の薬や運動よりも実践的で理に適ったものでした。

東京:合気道を通しての道

フランチスは1967年、18歳の時に日本へ行き、東京の上智大学に入学しました。彼の一番の興味は空手のような激しい武道でした。彼は1967年から1969年まで合気道の開祖である 植芝盛平翁(Morihei Ueshiba)の門下生として学ぶという幸運を得ました。開祖は非凡でまぎれもなく「気」の開発に於いて最高レベルの達人でした。開祖が逝去される数ヶ月前、弱りすぎて歩けない状態の彼は道場へ担がれて来られました。しかしそのような状態でも彼は立ち上がり、突然エネルギーを奮い起こし、あたかも縫いぐるみ人形かのように最強の生徒を投げ飛ばしたのです。稽古の後、彼は再びベッドへ担がれて行きました。フランチスはその出来事を、生命力が肉体を超越する生々しい実例として受け止めました。

開祖植芝翁が合気道の技や精神を生徒に伝授しましたが、フランチスは開祖のような並外れた「気」のレベルを達成した者は誰もいないように感じたのです。

周知のことで道場では殆ど語られないのですが植芝翁は中国でも過ごしたことがあります。その頃から彼の手法も柔術から合気道へ変わりました。それは柔術の手法から「気」を取り入れた手法への変化です。植芝翁の門下生として合気道を学ぶ頃にはフランチスは五つの日本武道の黒帯を持っていました。彼は何人もの最高位の日本人先生を訪ねました。しかし彼の目には誰も植芝翁のように強力な「気」のパワーを持っている人を見ることはありませんでした。フランチスは植芝翁が学んだ「気」の訓練とは何だったのか見いだしたくなりました。

台湾:驚くべき王樹金(Wang Shu Jin)

フランチスは1968年に台湾へ行き、更にもう一つの体験が彼を中国本土へ向けたのです。台湾では中国の天津から来た内家拳の老師王樹金に出会いました。王老師は70歳代で身長は173センチで110キロ以上の太った人でした。にも拘らず遥かに若いフランチスよりも動きが素早く自由自在に投げ飛ばしたり叩きつけたりすることができました。

王老師は、空手は技法としては劣っている上、長年の練習で体を老化させたり損傷させるのだ言いました。長い間空手を学んでいたフランチスは、武道家がしばしば意見の相違で挑戦的になるように、彼は強く反論しました。王老師は彼の見解が正しいかどうか試すように促しました。

フランチスがその時の試合で記憶しているのは、王老師の体のあらゆる部分で手や足を傷つけたこと、老師が試合の間、何度か背後に回り肩を叩いて当惑させる癖があったことだけでした。彼の心に深く刻まれているのは王老師が目を半開きでゆっくりフランチスの方へ歩いて来た瞬間です。その時フランチスは命の危険を感じました。彼は壁に寄りかかり、踏ん張って、思い切り老師のみぞおち付近の太陽神経叢を蹴りつけました。蹴りは単に老師の怒りを目覚ませるだけでした。王老師はフランチスの頭をかるく叩きました。その時フランチスの体中に電光のような衝撃を感じ、次に覚えているのは全く予期せず突然床に倒れたことです。

フランチスは台中公園で王老師の朝5時からのクラスをとり稽古を始めました。およそ一週間後、生徒の一人である老人がフランチスにプレイしないかと言ってきました。この年配の男は背が低くて細い生徒だったので、フランチスは少し不安に感じ、真剣勝負しないようにしようと思いました。彼は黙って数回打たせた後、それが誤りだったことを知りました。彼は老人に対し思い切り戦い始めました。その老人はフランチスを相手にしませんでした。終わった後でフランチスは唖然としました。彼が呆然と立ちすくまっていると、老人の妻がやってきて私とやりませんかと尋ねました。一年間日本にいた後で、フランチスは申し入れを断るすべを知りませんでした。彼女が日本の空手二段の黒帯の彼とスパーリングできたのは正に驚きでした。

フランチスはその年配夫婦との体験で、武道を本気で止めようかと思うほどに完全に落ち込んでしまったのです。王樹金老師が彼を負かしたのは一つ、平均的に見える年配の生徒達が彼を負かしたのは何か他にある。この頃までには、彼は黒帯になって四年が経っていました。日本では一日8時間の練習をずっと続けてきていたのです。しかし何だかボートに乗り遅れたように思えました。彼らは次に5歳の子供を連れてきて自分を打ちのめすのだろうか?12歳ではなくて3歳から始めるべきだったのだろうか?一日14時間練習すべきだったのだろうか?

彼は数日後にこの台湾人の年配夫婦と話す機会を得ました。(フランチスの日本語は台湾人年配者の日本語と同じくらい流暢でした)彼らは、以前夫がひどい関節炎(リューマチ)に苦しんでいたので王老師の元に7年前に来て学んだのだそうです。最初は武道ではなくて健康回復を考えていました。3年間太極拳・八卦掌・形意拳・気功を学んだ後、ルーズな性格なので、背中がまっすぐになったところで練習を止めました。ところが半年後に症状が再発してしまったのです。そこで稽古を再開したら症状が和らいだのだそうです。

この老夫婦と話した前日にフランチスは喪失した自信をいくらかでも取り戻そうと思い、王老師の十代の若い生徒達と戦ったのですが当然のごとく打ちのめされてしました。王老師の生徒達は皆「気」を開発することで最高レベルの健康とパワーに達したのだということがはっきりしました。フランチスの考えも変わりました-もし王老師の生徒たち皆が極限に達することができたのなら自分にもできるはずだと。以来、中国の内家拳を王老師から学ぶ彼の決心は堅固なもでした。

王老師は内家拳と外家拳の違いを説明し始めてくれました。外家拳は骨、筋肉、体の外側を開発するのに対し、内家拳は「気」の開発に集中するものです。気功とか太極拳・形意拳・八卦掌などの内家拳は人が体のエネルギーと共に動作できるようにするので「気」が固体のように有形化するのです。海の水が泳ぐ者のためであるように、空中のエネルギーフィールドも気功師や内家拳師のために実在のものとなるのです。

内家拳が護身用で使われる前は道教のヨーガの一端で、主目的は身体の治療で、心を静め、寿命を伸ばし、より高位の瞑想実践のための体の基礎を形成することにあったのです。内家拳は形態的完全性、健全な身体組織、肉体的な力や超能力の感覚を開発するよう美しく流れるような動作に基づいています。19歳のフランチスは70歳の王老師に直接戴いた言葉を忘れません:"私は貴方より一杯食べれるし、性力もあるし、貴方より動けて上手に闘えるし、病気にもならないけれども、貴方は自分を健康だと言えますか?健康であることは単に若いというよりももっと大きなことなんです。" フランチスは王老師の言葉の真意を認識し、断続的に10年間彼に学びました。

フランチスは東京の上智大学に戻りました。1968年から1971年まで、大学の課程にいる頃、彼は形意拳の達人で太気拳創始者の澤井健一氏や日本にいた王樹金老師の生徒達に内家拳を学びました。その間幸運なことに、中国の整体術である気功推拿を教えてくれる年配の中国人医者にめぐり遭い、2年ほどの間に基礎を習得しました。フランチスは後に、この術を更に学んで彼のクリニックで使用することになります。この医者から初めて気エネルギーを手から出して他人の病気を治したり体のあちこちを改善することを教えられました。日本が三年目の時にフランチスは沖縄の特別空手研究生となり空手や武器技に更に集中しました。ここ空手の発祥地沖縄において彼は、空手が高度な武道技法の多くを欠いていると同時に、気を開発したり健康を向上させたりといった実用面の欠如を強烈に感じました。彼は純外家拳の激しいスタイルの学習を永久に止めるという現実にたどり着いたのです。この時点から彼は内家拳と気功だけに集中しました。

インド:気修養としての瞑想

台湾の王樹金に学んだ道教から、フランチスはエネルギー増進は瞑想の基本の一つであることを知っていました。5世紀に達磨がインドから武術と瞑想を中国の嵩山少林寺へ伝えたという伝説があることから、常に発祥探求に熱心なフランチスはインドの発祥の地に直接行こうと決心しました。(彼は当時中国は武道と高度の磨かれた気の開発方法を達磨が訪問した何世紀も前に保有していたという歴史的事実は知らなかったのです。)

アメリカで遭った東洋人の指導者達には大変失望したことから(彼らは情報を出さないのか、初めから教える本物の知識がなかったのか、言葉の問題で上手く伝え切れなかったのかいずれかでしょう)、もう一度エネルギー開発の"ハーバード"であるアジアへ戻る決心をしました。1987年に故郷米国へ永久帰国するまで、フランチスはアジアと欧米間で交互に過ごしました。彼は気功推拿の療法を修行すると同時に米国やヨーロッパで気功と内家拳を教えながら生計を支えました。1972年、アメリカでの太極拳を6ヶ月間ほど控えめに教えた後、インドへ向かいました。まず生命エネルギーと直接作用するプラナヤマ・ヨーガの技法を学ぶためにインド南部のアシュラムに行きました。そこでは呼吸法・マントラ・ムドラーの古典的な方法を3時間のセッションで日に4度行って訓練しました。3ヶ月の特訓の後、フランチスはクンダリニー・シャクティを覚ますことができたと言っています。これは意識を浄化する過程を始める心霊力で、最終的に悟りに繋がります。フランチスは更にインド北部でタントラ・クンダリニー瞑想法をリシケンの導師Shivom Tirthに学び、中国とインドのエネルギー開発法の基本的な類似点や相違点が理解できるようになる経験をしました。

フランチスはインドと中国の方式のどちらも、正しく実行すれば、生命エネルギーの開発やコントロールで、治療したり延命したりできることは知っていました。どちらも歴史が証明していて、文字通り数千年の実践と改良を積み重ねています。フランチスが気づいた健康なレベルでの訓練法の主な違いは:中国方式は川の水が流れるように絶え間ないエネルギーの流れの体の運動を重視し、インド方式は始まりと終わりを区別して各姿勢の間で止める姿勢を利用するというものです。実際の体験ではその違いは思ったよりも深いものです。太極拳と気功は能動的で、ヨーガは受動的です。ヨーガはより柔軟性があるようですが、太極拳は大きなパワーと統合した動きを作り出します。両方とも似ていて、ハタ・ヨーガでは、姿勢で体を開きプラナヤマ(呼吸法)でエネルギーを取り入れるように教えます。一方純粋な中国内家拳では生命エネルギーの循環を促す特定の運動を利用します。しかし生命エネルギーの作用無しではいずれの方法も得られるエネルギーの量は比較的少ないのです。西洋で教えらている大半のヨーガや太極拳や気功では内側のコンポーネントが含まれていないとフランチスは考えます。外家拳とか太極拳の表面的な動きやヨーガの姿勢を単に強調するだけでは、フランチスにしてみれば、非常に限られた量の「気」しか生み出されないのです。

これら二つの方法はお互に排他的ではありません。効果を上げるためには同時に実施できるとフランチスは考えます。現在ヨーガを練習している人にとっては、中国方式が邪気を払いエネルギーの取り込みを加速するすばらしい助けになるでしょう。フランチスはインドの修行でハタヨーガの最も難しい姿勢の数々ができるようになりましたが、この方法では動的方法ほどには満足できるものを見い出せませんでした。

インドでの経験でフランチスは導師の概念に不信を感じることが一つありました。それはインド伝統の中枢役である導師の崇拝で、導師は地上界における神からの直接の使者だとすることです。西洋人では生きている人に対して殆どないことですが、インドの導師たちは神の使いとして敬意と崇敬で扱われたのです。中国の伝統でも師に対しては欧米以上に大きな尊敬を与えますが、道教の師は(中国の全ての師が道教家ではありませんが)古代賢者の守衛と見なされています。道教に於ける師と師弟の関係は、神のような師が単なる人間を助けるというよりも、友を尊敬し友を助けるというような関係です。道教家は誰もが「道」に居ると考え、彼らは「道」の中の友として話します。ゆえに、フランチスの中国での道教家に学んだ修行はインドで導師に学んだ修行よりも身近に感じるものでした。

インドでは世界に二つある生命エネルギーの代表的な方法の比較を系統立ててることができました。彼は「瞑想」と「気」についてたくさんの価値ある知識を吸収しました。ところが不運なことに彼は大変致命的な肝炎に感染してしまったのです。

台湾・香港・プーナ・北京:熟練ファイターから熟練ヒーラーへ

インドでフランチスが罹ってしまった非常に悪性の肝炎は身近な二人の友の命を奪い、彼も肝臓をひどく損傷しました。フランチスは太極拳や気功に学んだエネルギー術が無かったらインドで死んでいたでしょう。状態は非常に厳しいものでした。彼は病院のベッドに横になって殆ど動くことができませんでした。フランチスを診察したインド人の医者は彼に死の危険を告げました。医師の言ったことが真実であることを認識した上で、もしこのまま何もしなかったら実際に死んでしまうだろうと感じていました。彼はベッドから這い出し、その間ずっと震えながらも、立って無理やり太極拳と気功の動作をしました。激しい痛みが体中を通りましたが、完全にベッドに倒れるまで続けました。その後彼は三日間眠り続けました。目が覚めて自分が生きていたことを実感したのです。それから旅行ができるようになって、彼は台湾へ戻りました。そこでは熱心に八卦掌の老師洪懿祥(Hung I Hsiang)のもとで内家拳を累積4年間修行しました。フランチスはこの修行のおかげで彼の肝臓は次第に再生され、武術を学び続けられたのだと信じています。

彼は半内家・酔八仙拳(Eight Drunken Immortals)の半外家カンフースタイル・北派螳螂拳・福建白鶴拳(White Crane)・北派猴形拳・詠春拳(Wing Chun)も習いました。中国本土にいる本当に優れた武術師達の多くは年老いているので、彼らが没する前に武術を学べるのは最後のチャンスかも知れないと思ったのです。徹底的に拳闘術に没頭する修行期間中も、フランチスは時間を作って特定の病気を治す気功医学も勉強しました。特に神経や脊椎を再生する気功術に注目しました。彼は訓練で自分のエネルギーレベルを連続的に増加できたことで、否定的感情を心身から取り除くことを専門とする道教家に瞑想を学ぶ時間も作れるようになりました。

1975年の終わりにかけてフランチスはマンハッタンに帰り、半民間で教えながら気功体操と気功推拿で多くの患者を治療しました。しかしまだ大きなグループを公に教えるつもりはありませんでした。というのは東洋の伝統術に敬意を抱ききれていませんでしたし、この方法で教えるだけのものをまだ十分知りませんでした。それにアジアを行き来していたので、生徒の上達具合が見れないという思いもありました。

米国ではこの頃、生活でのストレスや、働き過ぎや心配事で燃焼し切ってしまう人が膨大な数にのぼることの深刻さを、彼は非常に認識するようになっていました。彼は道教のトレーニングを適用するのはすばらしいことだと思いましたが、彼自身の医学の教育には大きなギャップがあることが分かっていました。彼自身が負った内臓系の健康問題の多くは気功ヒーラーとして取り扱える彼の能力を超えていました。フランチスは練習中に体の弱い部分すべての細かい記録を取って、一年ほどでアジアへ戻った時に、彼が必要な医療に欠けているものを見つけられるようにしました。

彼は感情への洞察やストレス状態に与える影響を追求するため、1977年にインドのプーナへ渡りました。そこでは感情・心理学分野・瞑想・気の関係を研究するグループと共に活動しながらクンダリニー法にニューエージの精神療法を取り入れてタントラの勉強を続けました。この研究では西洋的精神の働きがどのように東洋的エネルギー構造に適合するかといったすばらしい情報をフランチスに与えてくれました。

1977年の終わりには台湾へ戻り一日12時間を内家拳、八卦掌の鍛錬、道教とタントラ瞑想に専念し、非常に興味のあった感情エネルギーを縛る方法の開発に打ち込みました。彼は脊椎と神経系の研究を続けました。1978年に香港で上級鍼療法の資格を取りましたが、彼は鍼療法の開業よりも気功推拿治療に専念する道を選びました。

1979年終わりに彼は米国コロラド州のデンバーに移り住んで、少数の続けていた生徒達のための学校を開きました。この時点で彼は公にワークショップで教えたり本を書いたりするための気功の内部的要素の熟達度に十分自信が無く、自信がついたのは、この後北京の劉老師に学んでからのことです。何年もの間、格闘技の戦闘場で成功を満喫した後、フランチスは今その格闘技からヒーリングや瞑想に専念する変換をし始めたのです。1970年代とその後の北京でもフランチスは拳闘技を磨き続けましたが、当初の関心は決定的に変わってしまいました。事実、その影響が大きかったのが1981年夏に北京の劉洪傑老師に師事していた時で、彼は訓練に没頭し、劉老師の家から僅か徒歩5分の紫禁城でさえも一度も訪問することがありませんでした。

1981年の秋、ブルース・フランチスは再びデンバーへ戻り、静かに指導者を育て、訓練を再開しました。そんな中、あわや生涯を棒に振る経験をしたのです。

デンバー:自己治療の危機

1982年、フランチスはひどい自動車事故に遭いました。彼は脊椎の重度の損傷に苦みました。脊椎骨が二つひどく割れてしまい、頭髪の生え際にも何箇所か骨折を負い、脊椎靭帯と腱が裂け、脊椎骨が全部ずれてしまいました。外科医は彼に脊椎固定手術を勧めましたが、フランチスは痛みをこらえながら無作法に断りました。気功と気功推拿に向かい合って来た年月が、この状態で一度脊椎を切開すれば、二度と「気」が満たされることは無いと彼に教えてくれたのです。

フランチスは外科医を避けて日に8時間から10時間の気功を始めました。それは気功術による長くてつらい苦難な脊椎再生法でした。合併症が起きました。脊椎破壊に彼の心理制御法はすべて効果が無かったとフランチスは言います。彼の心の奥深くに抑えられていた最も暗い力全てが浮かび上がってきました。瞑想を集中的に修業していなければ気が狂って精神病院で終身刑を言い渡されたでしょう。彼はしがみ付きました。

しかし変わらぬ神経の痛みに加えて感情までもが彼自身や周りの人達の生活を耐えきれなくしてしまいました。突然の体力と能力の損失、運動選手としてのプライドの崩壊は彼にとって痛烈な殴打でした。彼は痛みのため激しい鬱になってしまい、太極拳への興味も失い、八卦掌もやることができませんでした。精神的な面で何かしなければならないということは分かっていました。自分自身や生徒に対しても無用な状態のままではいられません。気功の実践で彼の脊椎がある程度動かせるまでに回復した時、フランチスはコロラドとオレゴンで色んな心や体の療法に参加しました。それらは幾らか助けになり、精神の安定を増強してくれました。しかし、どんなに効果的な心理学療法であるとは言え、四六時中続く神経の痛みは感情混乱を起こし続けました。その心理学療法では不十分でした。

フランチスは脊柱指圧法・深部組織の刺激・ロルフィング(構造的身体統合法)・鍼療法・マッサージといった運動療法を含めあらゆる理学療法を試しました。それらは僅かに助けになって一両日は痛みが減るのですが、常にぶり返しました。西洋でできる代替療法では永久的な回復が得られないことが分かった時、フランチスはいつもやっていることをしました-彼の身体を作る適切な治療法を探すために中国へ行ったのです。

北京へ再び:劉老師との最後のレッスン

フランチスが1983年夏に北京へ着いた時、劉老師は瞑想療法をしているということで会えませんでした。運よく香港の彼の先生である白華からの別の手紙で、福建省厦門のLin Du Yingに楊式太極拳の内家術を学ぶことができました。フランチスはYang Shao Jung(楊式太極拳の開祖Yang Lu Chanのひ孫)や多くの先生に楊式太極拳を学びましたが、彼はLin Du Yingを深く尊敬し、かつて見た中で楊式では最も優れた指導者であると思いました。フランチスを正式な弟子として認められてからは秘伝情報を公開してくれました。Lin先生から太極拳秘伝の教えを受けるのは名誉なことだとフランチスは感じました。

9ヶ月後に劉老師に会えることになってフランチスは彼に合流しました。楊式を実践したことで彼の首や背中の上部の痛みは和らいだのですが他の部分はまだ痛みました。劉老師は呉式太極拳を処方しました。このスタイルは柔らかな治療と瞑想が特徴です。体を強化して心を澄ませます。何ヶ月かの呉式の実践でフランチスの背中や腰の痛みは消えました。

劉老師はそれからフランチスに道教の瞑想法を数時間のセッションで一日二回教え始めました。フランチスの腰が十分に治癒して、老師は八卦掌と形意拳を一定の気功のやり方と同じように教え始めました。この訓練は3年間毎日休み無しで続きました。

劉老師はフランチスの(20年以上蓄積した)難解な教育の多くのギャップを埋めてくれて、それまで存在を知らなかった心の場所へ案内してくれました。道教瞑想実践のあらゆる段階を通じて、全てが道と一体化する場所を体験できるようにフランチスを導いてくれました。武術や気功だけでなくて(この時にはフランチスは十分資格を得ていました)、道教の瞑想も、フランチス自身がやりたいと思えば教えて欲しいというのが、劉老師の願いでした。フランチスが本稿や他の書物で示す気功法を系統立てることができたのは、劉老師の存在ゆえでした。 劉老師は古代から中国に閉じ込められた知識を他へ伝える権限を西洋人に与えるという前例のない手段をとったのです。

1986年12月1日劉老師は八卦掌の最後の掌の反し方と呉式太極拳の最終レベルをフランチスに教え終えて、その翌日に他界しました。彼はフランチスにリネージを継承しました。老師を失った悲しさはこの上なく耐え難いものでした。フランチスはこのような師に出会えた特権をひしひしと感じました。劉老師に学べたことは、偉大で希少な贈り物の受取り人になれたということでした。通常は直属の家族のみに限られる劉老師の遺灰を混ぜるという名誉を賜わり、その後フランチスは本国アメリカへ帰りました。

欧米におけるフランチスのゴールは、彼が修得した生活向上の手法をできる限り伝えることです。劉老師の寛大さはフランチスに知識と自信を与えました。この知識を欧米人が利用できるようにすることで、文化の橋渡しするのがフランチスの願いです。フランチス曰く、"秘密にする時代は過ぎました。" 

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体験談ご紹介

I recently returned from a three week instructor training in a chi gung practice called “Gods Playing in the Clouds”. This intensive was held at Menlo College near San Francisco and I’d like to share some details about my experience.

…(続きへ)

Frank Iborra